2005年08月08日

感じ分ける「心」

この記事は、前回の「効率主義の代償」の続きにもなっています。



便利だから、効率的だから、利益を生むために・・・。
そんな謳い文句の影に隠された、負の弊害。
そんな姿勢の背中で、失われていく技術。

阿保さんが、最後に見せてくれた、ある手道具。
初めに見せて頂いたのは、今はもう亡くなってしまった、名人と呼ばれた道具職人さんの作ったもの。
そして次に見せて頂いたのが、それと同じ道具を、最近の道具職人さんに作ってもらったもの。
姿形は、一見同じように見えない事もないのですが、それを手にしたとき、素人でも分かるような、そのあまりにもレベルの違う出来に、驚いてしまいました。
電動工具が普及する事によって、高い技術を持っていた職人も次第に減っていき、高い技術の基盤となっていた優れた道具の需要もそれに伴い減っていったために、それを作る道具職人も減っていく。技術は伝承されなくなり、今の世の中の流れの中では、やがて消え去ってしまいそうな、そんな深刻な状況があるそうです。
このままでは、かつて現場で使われてこそ光を放っていた道具の数々が、いずれ美術館のガラスケースの中でしかお目にかかれないようなことにもなりかねない・・・。そんな話も、冗談ではなくなってしまいそうな勢いですね。

でも・・・。
「必要だと思われなくなったから、消えていくんじゃないの?消えていくのなら、それはそれで仕方ないんじゃないの?」
そう思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。かつて、私も似たような事を思った時がありました。


まるで、生物の食物連鎖を彷彿とさせるような話。需要と供給の連鎖の一角が崩れ去れば(絶滅してしまえば)、その影響は、密接な相互作用を保っていた他の生物にも及び、次の生物へ、さらに次へと衰退や絶滅を引き起こし、世界のバランスは一気に崩れてしまう・・・。そんな関係に、ちょっと似ているかもしれないな、と。
「必要だと思われない」からではない、本当は、そこにどんな意味があるのかを「知らない」だけ。表面的な事しか見えておらず、本質的なところにまで気がついていない、自分の無知さ加減を、今回の話でも、改めて思い知らされました。

阿保さんは、きっと、前述のような状況を痛感され、危惧されているからこそ、「これからは自分達がこれからの職人たちを育てていかなければ」とおっしゃられているのでしょう。
そして、前述の建築中の住宅について語られた時、「自分みたいなヤツが、(こうした住宅を手がける事によって)人の命を救う手助けにもなれるんだな、と実感した」とおっしゃられていた事が、重く響きました。そして「こういう仕事をやってきて良かった」と、嬉しそうに語ってくれた阿保さんの姿は・・・、やっぱり羨ましくも思えましたね。
阿保さんは、ある意味凄すぎて、スケールが大きすぎるので、自分の身に置き換えて・・・など比較にもならない事ばかりなのですが、でもそこに、「物作り」の本来あるべき姿勢があるようにも感じます。


重ね重ねにはなりますが、便利さを追求する事も、効率化を図る事も、利益を上げる事も・・・、今の世の中で仕事としてやっていく(生き残っていく)ためには、確かに大切な事だと思います。
けれども、それらを追求しすぎるあまりに、本質的な、決して忘れてはならない大切な事を見失ってしまって、例えば前回の記事「効率主義の代償」で紹介したような弊害を引き起こしてしまっては、元も子もないとも思います。
手で「モノ」を作ることを教え、学ぶはずのウチの学校の中にも、何故モノを作るのか、といったところまで辿り着く前に、既成のシステムの中で、いかにウケのいいモノを効率的に「生産」し、利益をあげるかといった目先のことばかりなのでは?という気がする学生も・・・いるでしょうね。それはそれで、まぁ、価値観の違いというか、その人の自由ですから、とやかく言う事もないのですが・・・、何となく残念な気はします。


また、まとまりのない文章となってしまいましたが・・・、結局のところ、物作りとは、思いに始まり、思いによって形作られ、引き継がれることによって、また新たに思いが生まれる、その繰り返しなのではないかと思います。
「『待合』を作ろう!・・・って、マジですか。(8/4)」の記事に、「陶工房」店長さんから頂いたコメントの中の、「『美しい』という言葉は『温度』が含まれているような気がする・・・」との言葉、私も確かにそうだと感じました。
空間も、家具も雑貨も、目指すところは、「使われてこそ」のものだと思っています。それらを手にしたとき、触れたとき、「心」が感じ取る「温かさ」。飾られるだけのものって、何か寂しい気がしますしね。「モノ」も「人」も、そのあたりのことは、何となく感覚的に共通するものがあるんじゃないかとも感じますね。

「温かさ」を感じるのも、「心」「美しさ」を感じるのも、「心」
「デザイン」という言葉。構造や構成といった「知識」や、かっこよさやキレイさといった「見た目」(百歩譲って機能)といった、ある意味外面的な判断基準で語られてしまいがちのような気がしますが、本来それは、ごくごく一部分の話でしかないのではないか、と、(結構大それた身の程知らずな事を)思ったりもします。
昔ながらの日本人の美意識にしても、私が個人的に、今感じる「キレイさ」とは少し異なる「美しさ」にしても、そこには始めから最後まで、「相手の事を思う心」があるように感じるのです。決して、自分の都合ではなく・・・。
前述の阿保さんの手がけられた住宅のように、住む人のことを思う「心」、使う人のことを思う「心」。その場限りではない、その先をも見据える「心」。時の経過を共に歩む事の出来る「心」。
デザインするという行為は、そういった、込められる「心」そのものを含んでの話ではないか、と思います。あ、これも、私一個人の(たぶんマイノリティな)意見ですので・・・。

ちょっと主旨はずれているかもしれませんが、かつて私が品質管理の仕事をしていた時に、心がまえとしていたのは、西堀栄三郎さんの、こんな言葉でした。
「作る人は、良い製品、人に喜んでもらえる製品を作る為に魂を込める。良い品質は、作る人の魂の証である。」
この言葉は、今でも変わらず、作ることのよりどころとなっています。

前々回の「『物作り』と『美しさ』と。」の最後でも述べたように、つまり、込められた「心」の有無や強さが、私にとっては「キレイ」さと「美しさ」とを感じ分けている「ひとつの」基準なのでしょう。


何だかそんな事をずっと書き連ねていたら・・・、何に「美しさ」を感じるか、ということを突き詰めていくと、その人の「心」のありようが如実に露わになってくるような気がしてきました。「美しさ」について語る事も、語られる事も、分かる人には「心」の奥底まで見透かされてしまいそうで・・・。ちょっと怖いなぁ、というか、うかつに語れないかもしれませんね。



明日館での卒業制作展まで、あと179日!

実は前回と今回の文章、一度最後の方までまとめあげかけたのですが、その瞬間に原因不明で強制終了されてしまい、原稿がパー。
調子に乗って書いていたので、バックアップも取っておらず、しばらく茫然自失。それからまた、頼りがいのない記憶を元に、ようやく書き直しました。なにやってんでしょう、自分・・・。

おまけに、部屋の中に蚊が入り込んでいて、寝ている間に刺されまくり・・・すっかり寝不足です・・・。

そんな私に、「うん、まぁ、頑張ったんじゃない?」と思って下さる心優しい方は、
こちら↓をクリックして頂けたら・・・、ほんの少し、報われたような気持ちになれるんじゃないかと・・・。ま、「何やってんだ」という叱咤でも・・・。
人気blogランキングへ
すみません、いつもおサルで。でもほんと、ありがとうございます!




posted by Metal_NEKO at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | Craft・Design | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
このblogのTopへ戻る

ランキングに参加しています。 1日1クリックでランクアップ!
投票&応援して頂ければ、嬉しい限りです。
ありがとうございます!!

blogrankingbanner_deka.gif
にほんブログ村 工芸ブログへ
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。