2005年05月16日

記憶の森を彷徨いながら。

昨日書いた「素材の記憶、『もの』の記憶」とも関連のある内容となりますが、「住む。(発行:泰文館)」という季刊雑誌の今春号に、「生まれる前の形 消えていく形」という記事がありました。この中で紹介されているのは、鍛金師の長谷川竹次郎さん

のっけからちょっと話がそれますが、鍛金、といってすぐに思いつくのは、銀や銅、錫や鉄などの金属の板を丹念に叩いて器などを作っていくもの。「打ち出し」とか「絞る」という言葉が浮かんできます。ぐい呑みやお皿、徳利・・・。銅のナベやフライパン、ヤカンや急須まで作ってしまいます。私が見た技法の本では、精巧な動物の置物まで、一枚の板から作っていましたっけ。まさに職人技の世界。


それはさておき。この記事の中で、執筆者(取材者)でもある漆塗師の赤木明登さんが、「モノ」の外側に見えている面と、その内に潜んでいるものについて、次のような興味深いご意見を述べられていました。

「ボクたちの身の回りの世界は、視覚的で、名前のあるモノに偏っている。フレーミングされた、外側に見えるものの価値が重要と思われる傾向がある。その時に、置き去りにされ、忘れられてきたのは、フレームの中に収まっているはずの、複雑で多様でつかみどころのない中身だ。それは、目には見えないけれど、五感のすべてで感じるものなのだ。」(季刊「住む。」13号(春号)より引用)

この、「複雑で多様でつかみどころのない中身」という部分、左官職人の小林澄夫さんがおっしゃっていた、「素材の無償性」という言葉と、かなり重なり合う捉え方のように思えます。そして、小林さんも、自著(「左官礼賛」 発行:石風社)の中で、現代社会(企業)が、「素材の無償性」を忘れてきてしまった、と指摘されていましたし。


そして、前述の言葉に続けて、赤木さんは、次のように述べられています。

「その中身は、目に見える形を超えて、いろいろなモノとつながりあっている。だから、混沌としているけれど、何か生き生きとしたものが潜んでいる。なのに、形として、一度切り取られてしまうと、周りのモノすべてと隔絶したような、交わることのないモノになってしまう。」(同引用)

この箇所も、そう。中身にあるのは、素材がまだ自然の中にあったときの、記憶。記憶を介して、自然界にあったあらゆるものどうしが繋がり合っているのではないでしょうか。
無機質な「モノ」に、生命感を感じる時。物言わぬ「モノ」が、何かを語りかけてくるように感じる時。
その「モノ」を形作った作者が、ただのルーチンワーク的な作業ではなく、長い時間をかけてその対象と向き合って制作してきた姿が、想像できませんか?ひたすらに対話を繰り返し、その「モノ」が内に秘めた記憶を探り出し、記憶の連鎖を断ち切らないように、繊細に注意を払いながら、新たな記憶を紡ぎだす作業。それが、物を作るということなのでは、と思うことがあります。
しかし、その記憶の連鎖を、不用意に断ち切ってしまうようなまねをすれば、その「モノ」からは、もはや何の息吹も聞こえてこないようになってしまうのかもしれません。


何を、どのようにして作るのか」という赤木さんの問いに、無口な長谷川さんがようやく答えた言葉は、「林の中をいつも彷徨っている。」
深く、重く、とても含蓄のある言葉だと感じます。

ところで、前述の赤木さんの言葉には、非常に「なるほど」と頷かされるのですが、一箇所だけ、気になるところがあって。それは、長谷川さんの答えを受けて、「作りたいモノも、形も竹次郎さんにはないのだ」と書かれた箇所。何度読み返しても、私はそこで毎回何かひっかかってしまうのです。

「世界の中に自分がいて、自分の中にも、また世界がある。」そんなことを、以前書きました(「私に出来ること(05/3/3)」)。そしてまた、「モノ」の中にも、同じように広い世界があるように感じる時があります。
現実の世界の中にある、「」。自分の中にもある、「」。そして、「モノ」の中にある「」・・・。3者の中に果てもなく広がる林の中を彷徨いながら、揺らめく木洩れ日を目で追い、風に吹かれる木々のざわめきや鳥のさえずりを聞く。土の匂い、植物たちの匂いが身を包み、歩き疲れた体を癒そうと、冷たい泉の水を口に含み、恵みの果実をそっとわけてもらう。五感を研ぎ澄ませて、世界の、自分の、そして「モノ」の、それぞれの内から発せられる「声」を聞こうとする。その「声」と、対話しようとする。お前は、私は、何を望むのか。お前は、私は、どんな形になりたいと願うのか。そして、お前とは、私とは、いったい何なのか・・・。その、内に秘められた「声」を探し求めて、「いつも彷徨っている」のではないか・・・。そんな風にも思えるのです。


それから、赤木さんの文章を何度も読み返しているうちに、今の世界は視覚重視で、忘れられてしまった「中身」は、五感のすべてで感じるものだ、というご意見が、ネフ社のクラーセンさんのおっしゃっていたこと(「De + sign(05/4/14)」)とほとんど同じじゃないか、ということにも改めて気づきました。
工芸を生業とされている方は、ひたすらに素材と向き合い、手を動かし、五感を総動員して制作をすることで、皆同じような境地にたどり着くのかもしれません。


昨日も書きましたが、今まで自分の中で漠然と感じていたことが、ひとつに繋がりそうな予感がしてはいます。しかし、今日のこのまとまりのない文章を見ると、まだ、自分の中でもしっかりとしたものには整理できていないようです。あぶないあぶない。また、分かったような気になって、慢心してしまうところでした・・・。
頭で分かった気になるのと、実感するのとは、また別の話。自分のこととして、真に理解でき、実感するようになるのは、まだまだ遠い先のことのようです。


あなたは、何を願っていますか?




またしても、長々とまとまりのない文章となってしまいましたが、読んで下さってありがとうございました。
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posted by Metal_NEKO at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | Metal -NEKO- Works | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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