メタリック感、などというと、ぴかぴかに鏡面のように磨き上げられた感じがしますね。
アルミやステンレス、メッキ加工などの、銀色に輝く感じ。
ひんやりと冷たい印象。クールな感じ。工業的。硬質なイメージ。
でも、私が日々制作している「もの」たちは、そうしたいわゆる一般的な金属の印象からは、だいぶかけ離れているかもしれません。
表面は、ハンマーで叩いて形づくった跡、いわゆる鎚目の表情がついている。
色合いも、基本的にほとんど黒っぽい。時には、あえてわざと錆びさせることも。
そして、金属という素材に抱かれる印象に相反するように、私はそこに、ぬくもりや柔らかさを探し求めてしまいます。
他の素材を扱っている工房の学生が、たまに、自分の工房の素材と組み合わせようと、金属工房に制作に訪れることがあります。でも、その時、最後の仕上げで、つるつるのぴかぴかに削り直し、磨き上げてしまうのを目にする事があります。それはそれで、「金属らしい」ということで、いいのかもしれませんが・・・。私は個人的には、そういう仕上げは好きではありません。
鍛造という技法で制作したとしても、最終的には鎚目も分からないくらいに仕上げるのが、本来あるべき姿なのかもしれません。いわば、職人技を駆使した世界。そして、それを、「美しい」というのかもしれません。
けれども私は、ぼこぼことした鎚目や、錆びて凹凸のある表面、コークス(石炭)で焼いて鍛造した時にしか出ない、繊細な模様に、とても魅せられてしまうのです(フェチ?)。
何故そう感じるのか、今まで自分でもあまり深く考えたことはなかったのですが、先日ある言葉に出会ったおかげで、自分の中で漠然とばらばらに感じていた事が、急にリンクしあって、ひとつに繋がったように思えたのです。
「アルミサッシュはアルミサッシュでしかないが、木の窓枠は、窓枠であるとともにそれ以上のもの、いわば木であった時代の記憶をもち、土の壁は壁であるとともにいつも壁以上のもの、大地の記憶をもっているものだ。」(「左官礼賛」 著:小林澄夫 発行:石風社 より引用)
この言葉は、小林澄夫さんという左官職人の方が自著の中で述べられているもので、この方は、月刊「左官教室」という雑誌(そんな雑誌があるんですね)の編集長も、長きに渡って務められていたそうです。先週の講義の中で、美術史の講師の方が、この本を紹介され、その中で出会った言葉でした。
小林さんは、かつての左官職人は、「素材の無償性への感受性」を持っていた、とおっしゃっています。「素材の無償性」・・・。難しい言葉ですね。小林さんがおっしゃるには、前述の、「木であった時代の記憶」や「大地の記憶」といった、「もの」以上の何か、「それを無償性と私達はいうのだ」そうです。(「 」内の太字部分は、すべて「左官礼賛」よりの引用です)
この本を紹介した講師の方は、「工芸を志すなら、このことを自分の扱う素材に置き換えて考えてみろ」と言われました。私の扱う素材は、金属・・・主に鉄です。今では、「鍛造」といえども、材料としているのは、工場で成形された鉄板や棒材などの無垢材。それこそ、そこには鋼材、という意味くらいしか見出す事はできません。
さらにそこから遡れば、鋼材の原材料となるのは、鉄鉱石や各種金属の鉱石。そう考えると、そこにはやはり、「大地の記憶」があるのでしょうか・・・。
小林さんのおっしゃるこれらの言葉は、主に素材と完成品との関係なのですが、金属の場合、直接鉄鉱石を使うわけではなく、原材料と完成品(自分の作る作品)との中間にある鋼材が、すでに「大地の記憶」からかけ離れすぎてしまっているので、素材(原材料)と完成品との関係を掴みづらいところはあるのですが・・・。
でも、私は、この言葉をかみしめているうちに、前述のように、つるつるのぴかぴかが何故あまり好きではなくて、表面に浮かび上がる表情に何故魅せられるのか、自分なりの答えを見出したように感じました。
簡単に言ってしまえば、それは、その表情に、作品が辿ってきた時間を感じるからなのだと思います。作品がその形へと形作られてきた、「記憶」が、そこに秘められているように感じるからなのだと・・・。
以前、「思い出の価(05/4/26)」という記述の中で、堀口すみれ子さんの、「もの」の価値とは、そのものに込められた思い出の価値で決まるのだ、という言葉を紹介しました。我々が、「もの」に込める思い出があるように、「もの」そのものにも、彼ら自身が持つ思い出があるのではないか・・・。そんな気がしてなりません。だからこそ、そうした思い出、記憶を消し去ってしまうことのように思えて、私は、つるつるのぴかぴかに仕上げてしまうことが嫌いなのかもしれないな、と思ったのです。
「左官礼賛」の中で、小林さんは、左官職人のなすべき仕事は、「ある意味が実現するよう素材をしてうながすだけだ」とし、左官職人に必要な技術(求められる役割、と言い換えてもいいかもしれません)については、次のように述べられています。
「素材の無償性を生かすこと、限られた意味へと素材を殺ぎ、切り落としていくのではなく、出来るだけ多様な意味をそこから救済しようとすること、そこに技術というものがあるのだ。」(同引用)
この言葉は、左官職人に限った話ではなく、すべての工芸や職人に同じ事が言え、求められるものだと、講師の方はおっしゃっていました。はっきりいって、当たり前のことですが、難しい事この上ない話だとは思います。ただ、素材の持つ意味を最大限に汲み取って生かし、そこに新たな息吹を吹き込むこと、それこそが、「職人技」のように思います。
果たして、私は、今までにどれだけ素材の持つ意味に、気づく事ができてきたのでしょうか。これからどれほど、気づく事が出来るのでしょうか。そして、私の作るものは、果たして・・・。
そんな訳で、今日も今日とて、金属とにらめっこしては、う〜ん・・・と唸るばかりです。
今回ご紹介した「左官礼賛」の書評及び注文できるページがありましたので、合わせてご紹介しておきます。
「左官礼讃」 【著者】小林 澄夫 【発行元】石風社 2,800円
[Cafe Impala] の Impala Book Club
(株)地方・小出版流通センター (書肆アクセス@神保町)
ちなみにAmazonでは、検索に引っかかりませんでした・・・。
「工芸」のカテゴリ、いまだに私1人しかエントリーしていないようです・・・。1人で1位、やった〜!・・・ちょっと寂しい、というか虚しい・・・。どなたか、工芸作家の方、いらっしゃいませんか〜。
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「工芸」部門
出版に関わっていらっしゃったのですか?そんな方に読んで頂けたとは、驚きました。拙い文ですが、御容赦頂けましたら幸いです。
私も、金属ばかりしか知りませんが、この本文中にも書きましたように、講師より、「自分の身(や分野)に置き換えて考えてみること」を大切にしたいと思います。
素材にも、作る「もの」にも、とことん向かい合い、その良さを知り、適切な使い方やより魅力を引き出せるように・・・、ずっとそれらと付き合っていきたいものですね。
こちらこそ、どうもありがとうございました。
こうしてまたご連絡頂けました事、大変ありがとうございます!
ご本の完成、おめでとうございます。
また拝見いたしたく思います。
お教え頂き、本当にありがとうございました。