2005年08月22日

何を「高み」と見て、何を目指し、何を極めるか

前回の記事で、ちらっと紹介した、手道具にこだわることの是非淡路さんの記事にコメントしようと思ったのですが、またしてもこの手の話題は長くなってしまったので、改めて記事としてまとめ直し、トラックバックさせて頂きました。なるべくこの記事内で完結するように言葉を選んだつもりですが、淡路さんの当該記事「久しぶりに、機械フル稼働。(05/8/10)」とその前後の記事を読んで頂けると、より主旨がご理解いただけるかと思います。



☆人間の表現
淡路さんは、前述の記事の中で、「手道具だけにこだわるのは間違い」とおっしゃられ、手道具と機械の位置付けについて問題提起されていて、なかなか考えさせられるものがありました。

私のやっている鍛造では、切断・熔断も、熔接も、研磨も、さらにはコークスを焚くフイゴすらも、電動工具と言えば言えなくもないものをフルに使っています。
機械っちゃぁ、機械ですね。
バーナーは・・・手道具でしょうか。微妙なので、純粋な手道具と言えば・・・
ハンマーくらいかも(笑)。


私は、今月初めの建築実習で、著名な大工さんでもある阿保さんの、手道具を使った仕事のあまりの素晴らしさに感動して、手道具と機械、というように対比をしてしまったことがありますが、こと自分の立場で捉えなおしてみれば、淡路さんのおっしゃる通り、まぁどちらも道具と言えば道具。


ただ、同じような道具を使っているとしても、工場で大量に生産されたものとは、明らかに何かが違うと感じられます(もちろん、良い意味の場合も、悪い意味での時もありますが)。

またあいまいな比喩になってしまいますが、何と言うか、
「匂い」が違う(笑)。

「味がある」などという、これまた一癖も二癖もある常套句もありますが。
「人間らしさ」や、その人(作者)そのものを感じ取る事もあります。
機械には表現できない、人間ならではの繊細な表現感覚。
あるいは、機械には出来ない、極められた職人の技や心意気を、そこに見る事もあります。

私はそこに、「手仕事」であることの意義を見出してしまいます。




「手仕事」、「手作り」という言葉は、確かに曖昧かもしれませんし、一概に定義づけできませんが、ある意味「手仕事」とはどこかで境界を区切れるようなものではなく、、そうした感覚的なところ、「心意気」のような領域なのかもしれません。手作りでも「手作りっぽくない=工業製品みたい」と感じるものもありますし、まぁそれは、個人的な感覚ですが。
強いて言えば、私の感覚では、やはり、設備的な機械を使用する工場での大量生産と比較して、なのでしょう。個人〜少人数での制作と工場生産。そこに何らかの違いがなければ(企業などでよく言われるのは、他社との差別化を図らなければ)、たぶん生き残ってはいけないでしょうね。

そこが、私が今抱えている問題やジレンマですね。そのあたりは、以前にある程度書いた記事がありますので、ここでは割愛しますが。

(簡単に言ってしまえば、機械で出来ることを手作業でやっても、あんまり意味がないけれど、機械で出来ることなら、工場生産モノや輸入モノにはかなわない、ってことですね。
今、家具業界が全般的に厳しい状況なのは、そのあたりの事も影響しているように思います。
だから、個人で制作していこうと思うのなら、機械(工場生産)にはできない、「手仕事」ならではの付加価値を考えていかなければ、というのが、私の考えです。
もちろん、機械をまったく使わない、という意味ではなく、淡路さんがおっしゃるように、「手道具と機械の位置付けをどれだけしっかりしておくか」ということでもあると思います。)


参照:「キレイなもの('05/6/24)」



☆人間の能力
工場で働いてきて思ったのは、「機械でなければできない事もある、それと同時に、機械には限界もある」という、まぁ当たり前のことでした。

一言に「機械」といっても、それこそ様々なものがありますが、私なりにこの言葉に象徴させている概念的なもので言えば。
産業革命後に急速に発達してきた「機械」とは、大量生産のために、労力も時間も削減できるように、また技術面にしても、今まで限られた職人が技を極めるのに費やしてきた時間よりもはるかに短い時間で、誰もが同じものを作れるように、扱えるようにという流れの中にあると思います。

機械にはあらかじめ定められた精度があります。

つまりは、その機械を使いこなせれば、誰もがその精度を出せるけれども、逆に言えばそこまでの精度しか出せない、ということ。
そして機械は融通が利かない。
普遍化や標準化されているので、ある程度のレベルまでは作り出せても、それ以上のものは作れない。


淡路さんの記事へ月蛇さんという方がコメントされていましたが、最後はやはり、極められた職人(人間)の能力でなければ対応できない世界もありますね。

似たような話ですが、以前TVで、世界的にトップレベルの技術を持つ日本の小さな町工場がクローズアップされていました。
世界の最先端技術に必要な部品が、世界中のどの企業、どの機械でも作る事ができず、世界各国からその小さな町工場へ注文や技術提携依頼、相談が殺到するそうです。
TVに映し出された小さな小さな工場の中には、最新鋭の機械などどこにもなく。そこには、ミクロン単位の差異を感じ取る、研ぎ澄まされた職人の感性と極められた技がありました。

宇宙観測用の巨大望遠鏡のレンズも、確か機械では作れない、と聞いた事があります。


まぁ、さすがに自分がそこまで技を極められるとは思えないですし、自分のやりたい方面にそこまでの技術が必要かといえば・・・。うん、正直
いらない
でしょうね。
ただ、確かにそこには、極めればどこまでも「高み」があるのだと感じる事ができます。今の自分からは、遥かに遠い彼方の高み。
そんな「高み」を目の当たりにしてしまったら・・・、昨日の山登りの話ではないですが、何だかわくわくしてきます。人間って、すごいな。単純にそう思います。



☆モノの「生き死に」
そして、もうひとつ、私の感じる手仕事の意義とは。

前回の記事でも紹介しましたが、淡路さんの前述の記事で、月蛇さんがコメントされていた、「手作業をすると、材料と会話をする事になります」という言葉。
創造的な仕事であればあるほど、まさにそうした姿勢で材料やモノと向かい合うことや、ものを捉えることが大切なのでは、と思います。

山登りで感じた事ともかぶりますが、向かい合うという事は、己を知り、モノを知ろうとすること。

物作りに関わる人は、よく、材料や作品、モノに対して、「生きている」「死んでいる」「生かす」「殺す」といった比喩で表現したり批評したりしますね。特に芸術の分野では、そうした作品の「生き死に」の概念が顕著なのかもしれません。


命あるもののような、躍動感や鼓動、リズム、輝き。
命のないものに、「イノチ」を吹き込めるかどうか。



厳密には「生きて」いないものにも、どこかに「イノチ」を感じられるものを探すように。「イノチ」を感じ取るほどにそのモノと向かい合うことは、そのモノの特性を掴むことでもあり、そのモノのあるべき姿を探り出すことでもあるでしょう。それが、材の声を聴いたり、そのモノと会話する、ということなのだと思います。

材ひとつといえども思いをめぐらす。まるで命あるものの個性を尊重するように、ひとつひとつの特徴に合わせて用途を変えたり、加工方法を調整したり。そのことが、取りも直さず、機能面にも強度面にも、耐久面にも優れた、良い物作りに繋がっていくのではないかと思います。



☆何を目指し、何を極めるのか
要は、何を一番の目標とするか、自分自身にとって一番大切にしたいものは何か、ということなのだと思います。
極めて質の高いものを作るのか、コストを抑えて大量に生産するのか。量、質、デザイン、コスト、精度や技術、空間や諸条件との調和、利益、顧客満足・・・。
どれも大切と言えば大切ですが、そのすべてを完璧に満たす事は、恐らく不可能でしょう。

どこかである程度の取捨選択は必要でしょうが、ある面で妥協するとするなら、その分、他のどこかを極める必要があるでしょうね。
そうでなければ、すべてがそこそこどまりの何の取り得もないようなものになってしまう恐れもありますし。
その、極めるべき「どれか」の選択が、人によって様々なのだ、ということなのではないでしょうか。


阿保さんも、手道具を使った手仕事に並々ならぬこだわりを持たれ、技術面でも日本随一の極められた技を持っていらっしゃるのですが、やはり、仕事とはお客様の要望があってこそのものですから、工期や予算に応じて、そこは電動工具や機械を使わざるを得ないところもあるそうです。

そうした場合に大切となるのは、自分にとって最も大切なことは何かを、常に見失わないように確固としたものにしておく事。
その上で、様々な手段を知り、身に付けておき、その利点と限界を知っておくことで、状況に応じて適切な手法が選択でき、それが最善の結果へと繋がっていくのだと思います。

様々な手段を、まんべんなくある程度知っているだけだと、それなりのものしかできませんが、肝心かなめの手法や技術を極めていると、他の手法では限界があったとしてもそれを補う事もでき、平均点から一歩も二歩も飛びぬけていくことができるのでしょう。



機械には表現できない、人間ならではの繊細な表現感覚。
手仕事という物作りの基本を押さえた上で、「機械」を知り、「機械」の限界を知る。
極められた手仕事を知ることで、改めて手仕事に戻る。
そのモノとひたすらに向かい合い、手で探り、そのモノのあるべき姿を感じ取る。


手仕事にこだわるというのは、そういうことかもしれません。
例えば、淡路さんが紹介されていた、化学薬品を使わないという「縛り」にしても、「手仕事」にこだわるという「縛り」を課すにしても、それが極められている場合にこそ、そこに意義があるのだと思います。



☆この記事への補足追記
誤解されてしまうと悲しいので('05/8/24)

ご参考までに・・・、過去の関連記事です。
☆「手仕事」と「工場生産」のジレンマ
「キレイなもの('05/6/24)」

☆向かい合うという事について
「素材の記憶、『もの』の記憶。 ('05/5/15)」
「記憶の森を彷徨いながら ('05/5/16)」

☆阿保さんの建築実習で学び、感じたこと
「『物作り』と『美しさ』と。 〜手仕事の意味〜('05/8/7)」
「効率主義の代償 ('05/8/8)」
「感じ分ける『心』 ('05/8/8)」


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posted by Metal_NEKO at 07:04| Comment(2) | TrackBack(0) | Craft・Design | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私も手工具・機械ともに使用して製作をする身なので
興味深く拝見させていただきました。

”何を目指し何を極めるのか”
物づくりに携わるものとして大切なのはそのことだなぁと
わたしも痛感してます。
そしてそれプラス
”何を伝え残していきたいのか”
「手仕事」ということを考える上では
そのもうひとつの価値基準もまた必要なのではないかと。

私もまだまだ模索中です。多分ずっと(笑)
Posted by asuka at 2005年08月22日 20:05
asukaさん、お久しぶりです!

伝えたい事、残したい事、確かに大切ですね。
今の私は、まだまだ自分が「作る」方にばかり気が向いてしまいがちなのかもしれません。

自分が残していきたいと思えるもの、
誰かが残していきたいと思ってくれるもの、
どちらも大切にしていきたいですし、
どこかでそれらがリンクしてくれたら、
きっとこの上なく嬉しい事なのだと思いつつ・・・。

私もずっと模索していくのでしょうね。
何か「分かった」つもりになったとしても、
それは、今いる自分のステージで理解できる範囲の事だけなのでしょうし。
でもだからこそ、物作りは、一生をかける価値があるものなのかもしれませんね。
Posted by Metal NEKO at 2005年08月22日 23:15
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