2005年07月01日

ライトのデザインによる照明 (明日館の食堂)

月曜日に見学した明日館の中でも、個人的にツボにはまったもの。
それは、フランク・ロイド・ライトがデザインした、天井照明です。

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この照明があったのは、本館中央棟の2Fにある、食堂
左右に長く細く伸びたアームが、天井の傾斜と対をなすように形作られた菱形が連続する空間。

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照明本体の形状が、また何というか・・・、格好いいじゃないですか
照明下部と、ランプ自体の形や大きさは、何となくバランスが悪いような気もするのですが、もうこの本体の形状が印象的で、見とれてしまいました。














ちなみに、この照明、当初の設計段階では、考えられていなかったものなのだそうです。

というのは・・・

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2005年06月10日

「自分」を超えよう (その1)

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課題の制作などで、「始めに何を作るのか明確にして、そのとおりに出来なきゃだめ」と、よく言われます。確かにもっとも。


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例えば、こういうものを作るときには。これは、今制作中の、ロフトへと登る階段の構造部分。それこそ、事前にきっちり寸法やら仕様やらを決めておかないと、後でどうしようもないことになってしまいます。
また、もし仕事などを受注できたとして、最初の契約の内容がはっきりしていなかったら、後でもめてしまいますし、契約内容とまるで違うものを制作してしまった日には、契約破棄ともなるでしょう。それは、互いの了承と納得が大前提である、「仕事」としてなら、最低限遵守すべき当たり前のルールなのですから。
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2005年06月09日

永遠に、片思い

水曜日の午前中は、デッサンの授業。
前回UPした画像工芸の世界に、デッサン力は必要か?(05/05/19))は、先々週で終わらせ、先週から新しい石膏像を描き始めています。
私は、絵画の方を専門に勉強しているわけではないですし、上手なわけでもないのですが、でも、デッサンの時間が好きです。

デッサンって、工芸を目指すにしても、やはり基本となるものだと思います。
今、自主制作で、具象的なものを(ほとんど初めて)制作しているのですが、初めての割には、「何だ、やればできるじゃん」くらいには、割とスムーズに出来てきているように感じます。 ( 「今の自分のすべてを込める(05/06/07)」に、部分の画像をUPしていますので、ご参考までに・・・。)それもこれも、経験的に学んできた技術はもとより、やはり基礎となるデッサンや造形演習などのおかげかな、と実感しました。

対象とずっと向き合い、鉛筆を走らせる。何度も何度も描き直して。
ラフな線を削っていって、確かな線を決めていくとき、何だか彫刻みたい、とも思いながら。
鍛造で作品を制作するときもそうですが、デッサンの時もまた、無心になれるくらいその対象と向かい合えるときが、何よりも心地よく感じます。ただひたすらに、「向かい合う」という作業。

けれど、「向かい合う」という表現は、適切ではないかもしれません。その対象と「向かい合いたい」と願う姿勢、と言うべきでしょうか。こちらが熱烈にメッセージを送っても、作品も対象も、なかなか返事は返してくれなくて。
・・・何だか、万年片思いのような気がしてきました。(←頑張れ、自分。)

でも。もしも、恋が求めるもので、愛は与えるものだとしたら
作品に、見返りを求めずに惜しみなく愛情を注げれば、個人的にはそれで幸せなのかもしれません。
って言うか、なに書いてんでしょうね、私は。(←自己満足で終わらせないように、自分。しかも、ある意味キショい。)

いずれにしても。
私が好きなデザイナー、マッキントッシュは、どこへ出かけるのにも、スケッチブックを持って、生涯に渡りずっとスケッチをし続けていたそうです。
世界と向かい合おうとするマッキントッシュの優しい眼差しに、世界は何かを答えてくれたのかもしれません。
マッキントッシュの作品を見ていると、そんな気がしてきます。



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2005年06月04日

機能美の多様性

「『装飾』とは?(05/05/31)」との記述に、頂いた淡路さんからのコメントにレスしていたら、また長くなってしまった上に、ある程度まとまりのある文章になっていたので、記事としてUPしておく事にしました。内容は、前述のレスのとおりですが、今回改めてUPするにあたり、若干手直しはしております。



「用即美」という考え方(あるいはそうしたモノ)があります。機能性を追及した形は美しい、というもので、私も好きです。例えば、伝統工芸品や「民藝」と呼ばれる生活用具。美術品ではなく、実際に使用する何らかの用途のために作られたものでありながら、それらの中には、芸術品と呼べるような美しさを持っているものも少なくありません。(何をもって「美術」や「芸術」と区分するのか、といったことはあるでしょうが。)
ちなみに、今では美術館や博物館のガラスケースの中に厳重に保管され、「〜文明の〜美術」といったくくりで飾られている過去の工芸品も、元はと言えば、何らかの用途を想定して作られたのが起源なのですから、そこにも、「用の美」というものが少なからず関係しているとも考えられます。
それらが何故美しいのか、といえば、自然界と同じく、機能性に対する必然的な形が、そこにはあるからなのでしょう。

でも、時々思います。自然界に存在するものは、みな必然的な意味をもっているのに、何故あんなにも多様なのだろう、と。
機能的には、ほとんど同じ意味を持つものでも、生物達は、種によって様々に異なる多様な形をしていることが、当たり前のことなのに、改めて不思議に思えてきます。
機能性を突き詰めていけば、必ずひとつの形に行き着く、という訳ではないのではないか・・・。例えひとつの同じ機能を目的としても、追求した結果として現れてくる形は、多様であるのが自然なのでは・・・。

何か用途のあるモノを作ろうとするとき、すでにある「定番」的な形に、この形しかありえないのでは、と捕らわれてしまいがちな自分がいますが、必ずしもそうではないのでは、と思い直すことがあります。
けれど、「定番」的なイメージが強すぎて、なかなかそこから離れられず、もっと他の可能性などは、到底思いつく事ができないのですが・・・。

きっと、自然の事、この世界の事を、一生かけてもすべて理解する事はできませんが、だからこそ、もっともっと、学ぶべきことは多々あると、反省する毎日です。


私もまだまだ学ぶ必要のある身。学んだ事を自分なりに解釈し直してまとめてみたりはしているのですが、多分に自分の主観が入り込んでしまっているので・・・。ひよっこのくせに、このBlogでは、ずいぶん分かったような偉そうな事を書いてしまっていたりもしますが・・・。けれども、現段階での私なりに、考える事、思う事を、改めて捉え直すきっかけになれば、と思い、駄文を書き綴っております。
何事も、様々な視点から眺めてみる事が大切だと、自分でも思いますので、私の書き込みも、「そんな風に考える人もいるのか」くらいの、様々な視点のうちのひとつくらいに捉えて頂けたらいいのかな、と思います。
また違う視点からのご意見や、誤りについてのご指摘なども、頂ければ幸いです。



余談ではありますが、最近の新幹線のデザイン。ちょうど今日、学校でそんな話題になったんですけどね。先頭がカモノハシのような、奇妙な形をしている、あれです。
あのデザインも、速度や騒音、風圧などを科学的に考慮して、極めて機能的に計算されたデザインなんだそうです。・・・ん〜、まぁあのデザインの場合、確かに機能的なのかもしれませんが、デザイン的にはどうなのかと。美しい・・・んでしょうかね。ま、それは個人的なことなので。



多分にあつくるしいBlogではありますが、今後とも宜しくお願いいたします。

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2005年06月03日

モノを作る立場の人間として

先日の、「『装飾』とは?(05/05/31)」との記述で、淡路さんからコメントを頂き、もう少し考えてみたくなりました。

ちょうど今日、イタリア旅行に行ってきた学生の写真を見る機会があり、やっぱりいいなぁ、と思いました。
ローマ時代のコロセウムや凱旋門、パンテオン。ゴシック建築の、空へと高くそびえる尖塔に、輝くステンドグラスの醸し出す荘厳な雰囲気。ルネサンスの頃の、フィレンツェ大聖堂やバチカン宮殿・・・。

確かに、およそ日常の生活とはかけ離れた空間ではあるんですけどね。でも、それらを取り巻くイタリアの街並みには、それらが完全に断絶しないような、過去から現代へ、非日常から日常へと、受け継がれ、連なりを持つような「何か」があるように感じられます。
(一方では、ミラノ・サローネで奇抜なインテリア・デザインが発表されていたりもして、イタリアというところは、本当に面白いところだな、と思います。)


私が目指す物作りは、非日常的な空間のための物作りではありません。「飾られるためだけのもの」も、あまり望んではいません。以前、「快適さと、豊かさと。 Vol.3 『思い出の価』(05/04/26)」でも書いたように、日々の生活の中で、やはり使われることを願っています。しかし、いくら日常の中で使われるモノ、とはいっても、それこそ消耗品のように扱われてしまっては、やはり悲しいものです。愛着を持って、末永く使ってもらえるモノを・・・。作り手の相当なエゴかもしれませんが。

非日常的でもなく、さりとて日常的過ぎるものでもない。これでもか、と過剰に装飾を施すのでもなければ、生産性のみを追及したかのようなシンプル極まりないものでもない。(あんまり関係ないですが、「シンプル」と「素朴」って、何か違うと思うんですけどね。例えば、暖かみとか)。
非日常と日常を連ねるもの。個人的な日常の生活と、世界とを繋ぐもの。そういうモノや、装飾、空間が、私は望ましいのではないかと思っています。
そのバランスを、いかにとっていくか。どこまで抑え、どこまで開放するのか。モノを作る側の人間として、そのことは、ずっと、恐らく一生考えていかなければならない問題なのかな、と、私個人は思います。




以前にも書いたとおり(参照:「マッキントッシュとギマール(05/05/23)」)、私は、アール・ヌーヴォー期の作品が、特に好きです。アール・デコの作品も好きではありますが、やはりどちらかといえば、アール・ヌーヴォーの方でしょうか・・・。
それは何故か、と言えば。


まず一つ目の理由は、当時急速に発達してきた工業技術と、自然を見つめ直す視線とを融合させようとした理念に、共感を覚えるからでしょうか。両者は、言ってみれば、両極端の方向を向いているようなもので、人間の欲望自然の摂理が、完全に共存可能かと言えば、昨今の環境問題に顕著に現れているように、極めて難しい問題だと言えるでしょう。その存在自体に、大きな矛盾を含みながらも、かろうじてバランスを取れる方法を探っていくような。

自然の生み出す美しさをデザインに生かす(自然のモチーフをネタにする)、というただそれだけの着想ではなく、人間の欲望と自然の摂理との間の折り合いをつけ、両者を結ぶものとしてデザインする。実際のところがどうだったかは別として、そういった視点で捉えた時、アール・ヌーヴォー期のデザイナー達が掲げた「理念(デザイン云々は、また別としても)」は、これからの物作りにこそ求められ、望ましいものとなり得るのではないかと、私は個人的に思うのです。


そして、もう一つの理由。
アール・ヌーヴォーの方が、より「一点もの」の色合いが強い事。アール・ヌーヴォ―、アール・デコ共に、工業化(大量生産)を前提としてデザインされたのですが、アール・ヌーヴォーのものは、曲線の多用や、自然界をモチーフとした複雑なデザインなどの理由もあって、どうしても一品一品、職人の手によって制作せざるを得ないケースが多かったようです。(一方、アール・デコでは、より工業化を目指して、幾何形体が主流になってプレス加工や型を使用して制作されるようにもなりますが、やはり本格的な大量生産には至らず、コストも高く、価格も高かったそうです。)
一品一品手間をかけて生産するのと、工場などで大量に生産するのと。どちらが優れている、とは言えません。ただ、個人的に、私は前者の方が、より好きだ、というだけです。

確かに、コスト面や価格の面で、日常的に使われるものとなり得るかどうか、矛盾はあります。けれども。いいものには、そこに、とても強く込められた想いを感じるのです。もちろん、想いの深さは、単純に、それに関わった人の数や費やした時間、手間などで計られるものではありません。それでも、デザイナーや職人達が、そこに込めた想いを感じ取れるような作品に出会えると、とても感慨深いものがあります。


私が、何か作品を見た時に、もしも心躍らせ、心底美しいと惚れるとき。たぶん、私は、そこに、執念にも似た情熱と理想、作品に捧げた愛情を感じるのだと思います。

愛された幸せな作品には、命のぬくもりがあるような気さえします。



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2005年05月31日

「装飾」とは?

以前、私の好きなデザイナーとして「マッキントッシュとギマール(05/05/25)」という記事を書いたところ、NAKANOさんの「社会分析的ブログ『アールヌーボー:ムダって言うなよ,そういうのを』」より、トラックバックを頂きました。その中で、「ムダとは何か」ということについて、大変興味深く考察されていらっしゃいましたので、ぜひご一読ください。



私の方でも、前回の記述では、たぶん言葉足らずなところがあったのでは、と思い、前回の続きのような形で、「装飾とは?」ということを考えてみたく思っていたのですが、つい長々と書きそびれてきてしまいました。

で、改めて、「装飾とは?」ということについて・・・。
私の在籍している学校は、その名も、「日本装飾美術学校」(名前出しちゃってもいいんですかね、まぁいいか)。略称(通称)、「DECOBI」と言います。
「DECOBI」の「DECO」は、アール・デコのデコ、デコラティブ(装飾的)のデコ、ですね。

装飾的な要素を極力押さえたインダストリアル・デザインが主流の現代において、「装飾」という言葉を前面に押し出しているのも、珍しいのかな、とも思えます。また、誤解を恐れずに言えば、「装飾」というものについて、否定的な見方をされる方も多いのではないでしょうか。
前述の通り、私自身は、「装飾」という名を冠した学校に在籍し、制作するものも含めて、「装飾」というものを考える渦中にいるので、なおさらそう感じてしまうのかもしれません。
「インダストリアル・デザイン全盛の世の中にあって、何故今さら、手仕事で延々と手間をかけて、装飾的な一品モノの作品を作るのか?それこそ、ムダなんじゃない?」・・・そういう声に、私自身、今までに何度となく、過敏に反応してきてしまった事もありました。

でも、結局のところは、そういう声に対しては、「あなたにとっては、ムダに思えるかもしれない。けれども、自分にとっては、とても大切な事なんだ。そして、同じように、それを大切に思っている人が、大勢いる事を信じているから。」と。それに尽きる、のかもしれません。(←こういう書き方は、また誤解されるかもしれませんね。)




「装飾」の美術文明史
〜ヨーロッパ・ケルト、イスラームから日本へ〜


著者:鶴岡真弓
出版社:日本放送出版協会
サイズ:単行本/310p
発行年月:2004年09月


「工芸の世界に、デッサン力は必要か?(05/05/19)」という記事の中で、「装飾の美術文明史」 (鶴岡真弓:著 発行:NHK出版)という本をご紹介しました。(その時にも、「装飾については、また改めて考えてみるとして・・・」と書いていたのですが、それも放ったらかしになってしまっていましたね。)
自分なりにおさらいがてら考え直してみると、もともと、美術の始まりは、原始時代の洞窟壁画や、古代エジプトの埋葬品など、呪術的な意味合いのものであったり、宗教的な儀式のためのものであったり。それから時代が進んでも、彫刻や絵画、工芸の多くも、神殿や教会を始めとした、建築を「装飾」するものであったりしたわけですから。つまり、今現在「芸術」と呼ばれているそれらのものは、決してそれ単体で存在することを目的として制作されたものではなく、空間を豊かにする「装飾」として制作されたものであった、ということになります。

例えば、もし、「装飾」はいらないものとして排されたとしたら?ギリシアやローマの、神殿や建物を飾った彫刻(レリーフ)がなく、ただの石積みであったら?中世の教会の、より空間を荘厳に神秘的なものにする、あの劇的に光を演出するステンドグラスがなかったら?ルネサンス期の、レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」のような壁画や、ミケランジェロの彫刻がなかったら?空間に飾られる、絵画がなかったら?etc.・・・。

たぶん、それらの空間は、とても寂しいものになっていたでしょう。そして、時代を超えて「美しさ」を人々の心に感じさせ、これほどまでに人々に愛される事はなかったのではないかと思います。
現代では、「空間を装飾するためのもの」と「芸術」的なもの(と言われるもの)との関係が、あまり密なものではなくなってきているようにも思えますが、少なくとも、過去においては、「空間を装飾するためのもの」がなかったら、今日「芸術」と呼ばれるものもなかった、とも言えます。


前述の「装飾の美術文明史」の著者である鶴岡真由さんによれば、「装飾」を基本とした感性、「装飾的思考」というものがあるそうです。それによれば、「装飾」を施すということは、空間を認識するということであり、そのことによって「世界の計り知れなさ」を知ることなのだとか。


私は、二十歳前後の頃、今のように工芸の世界に身を投じることなど思いもよらず、生物学を学んでいました。さすがに、もう詳しい学術的なことなど、きれいさっぱり忘れてしまいましたが、学んだ中で一番印象に残り、恐らく生物学を学んだ中で、その後の人生観や世界観にも大きな影響を受けたのは、「生物多様性」という概念でしょう。ものすごく簡単に言ってしまえば、「多様であるからこそ、この世界は成り立っている」というような事でしょうか。そして、この世(自然界)に存在するあらゆるものは、表層だけ眺めただけでは、ただの偶然やムダ、意味のないように思えてしまうようなことでさえ、必ずそこには必然的な因果関係がある、と、私は思うようになりました。

「(自然の中にあるものには何事にも、)必然とも言える意味や理由がある。だからこそ、人は自然の中に美を見出すのではないだろうか。」これは、私が今の「装飾」学校に入り直して、課題に取り組みながら考えた事です。(その時の文章を、今回「自然の中に見出す美しさ」として、改めてUPしました。今回の記事と合わせて読んで頂ければ幸いです。)


世界は、一瞥しただけで簡単に理解できるようなものではない。世界は多様であり、一個人や一時の感慨で計り知れるものではない。けれども、多様であるからこそ、そこに進歩や進化があり、多様であるからこそ、そこにそれぞれの美しさがある。
そして、その多様な世界と向かい合い、深く見つめていくと、その中には必ず、そうあるべき理由や意味が見つかる。人は、自分にとって意味を見出せない時、それをいらないもの(ムダなもの)と思ってしまうかもしれません。けれども、それがひとたび意味を持ったなら。そしてそれが、自分の中で、自分なりの「意味」とリンクした時。それは、もはやムダなものではなく、むしろ、かけがえもなく大切なものへと変化するのではないでしょうか。

世界の計り知れなさと、その中に潜む美しさ。
ともすれば、日々の営みに忙殺され、気づかないまま通り過ぎていってしまうような、それら。
それを人間の営みの中で端的に示そうとしたのが、装飾を施すことによって形作られた空間であり、その空間によって、改めて世界を知り、美しさに気づく。芸術的なもの(装飾)によって空間を豊かにする事は、人の心を豊かにする事である、と私は思います。
芸術とは、装飾とは、この世にある美しさ(時には、醜さやおぞましさも)を、より顕著に(あるいは印象的に、端的に)表現することで、見過ごしてしまいがちな「世界」への扉を開き、そして、それらと同じものが、人間の内にも存在するのだということに、改めて気づかせてくれるものなのではないか、と・・・、個人的な意見に過ぎないのかもしれませんが。


「人が自然の中に美しさを見出すのは、常に多くの不安を抱えながら生きる中で、心のよりどころとなる確かな約束を感じるためなのかもしれない。(中略) 『確かな約束』とは、つまるところ、『あらゆるものに普遍的なもの』が存在するということである。普遍的なものが存在するがゆえに、我々は共感する事ができる。慈しむことができ、思いやることができる。そこから生まれるのが、いや、そのこと自体を指し示すのが、広範な意味での『美しさ』なのではないかと思う。」(「自然の中に見出す美しさ」より)




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2005年05月28日

松本・あがたの森でもクラフトフェアが!

展示会がらみの話題をもう1つ。長野県松本市の「あがたの森」で、今日・明日と、クラフトフェアが開催されているようです。(私は出店していませんが。)



クラフトフェアまつもと
あがたの森公園
5月28日〜29日





参加される作家さんは、木工・陶磁器・皮革・ガラス・・染職・・・そして金属も!
私は、一昨年行きましたが、去年は行けずじまいで・・・。いろいろな作家さん達の作品を見ることは、勉強になりますし、励みにもなります。
自分もいつか、クラフトフェアなどに参加することもあるのかなぁ、などと思いつつ、参加するとしたら、自分ならどうしたらいいだろう?と考えながら見てまわるのも、また違う発見があったりして、楽しみですね。

松本と言えば、民藝運動でも有名ですね。昔ながらの面影が残る、縄手通り中町通りには、蔵作りの商家を改装したクラフトショップもたくさんあり、こちらを散策するのも面白いです。
ちなみに。今回のクラフトフェア。私の在籍する学校の、民藝とも関わりの深い磁器の講師の方も参加していらっしゃるそうです。う〜ん、見つからないように、こっそり見に行ってみようかなぁ(←何故?)



頑張れ、自分。

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クラーセンさんの個展が開催中!

春にグループ展を行なった際に、お会いすることができた、ネフ社のクラーセンさん。
ハンドメイド(クラフト)の重要性について、大変興味深いお話を伺うことができて、感銘を受けたのです。 (その時の記事:「De + sign (05/04/14)」)
そのクラーセンさんが、mono gallery にて、ただ今、2人展を開催されているそうです!
うわ〜、行ってみたい!見てみたい!

詳細はこちら。



TOGETHER BETWEEN EXHIBITION

白石眞弓・ペア クラーセン 2人展
5月25日(水)〜5月30日(月)
11:00〜19:00(最終日17:00まで)
Mono gallery 





5月30日まで、ということで・・・。うわ〜、ものすごく行ってみたいんですけど、ちょっと厳しいかなぁ・・・。う〜ん、残念・・・。
東京、吉祥寺周辺にお住まいの方、いかがですか?きっとオススメ、だと思いますよ。

ちなみに、 ネフ社の公式サイトに、クラーセンさん(Peer Clahsen)の紹介ページもありましたので、こちらもどうぞ。

クラーセンさんも、もっと五感をフルに使って感じることが大切、というような事をおっしゃっていましたが、昨日受けたインテリア・コーディネイト演習という講義の中でも、やはり同じように、インテリアや空間も、五感で感じなきゃ、と講師の方に言われました。
目に心地よいデザインや色彩、プロポーションや配置。耳に優しい静けさやざわめき、生活や自然の奏でる音。体を委ね、包み込まれるような柔らかなモノや空間、いとおしくなるような肌触り。安らぐような香りを楽しみ、食事を楽しく味わう。日々の生活を愛せるように。

五感で感じて、でも、感じる事を享受するだけではなくて、なぜそれが心地よく感じるのかを考えながら、自分もそんな空間作りのお役に立てるようなモノを、作っていくことができるように・・・。
五感フル動員で、制作していきたいと思います。



めげるな、自分。

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2005年05月24日

マッキントッシュとギマール

木工作家のyutakaさんのBlogを拝見していたら、東京都美術館で開催中の「アール・デコ展」に行かれた、と書かれているのを見かけまして。(yutakaの家具デザイン室 「上野の美術館に行く」)

・・・いいなぁ〜。

いえ、私も好きなんです。アール・ヌーヴォーからアール・デコあたりの作家や作品が。
「えぇ〜?! いまどき、アール・ヌーヴォー?」とか言われそうですけどね。

最近、このBlogで、よくネタにしている美術史の講義がありますが、今年度に入ってからは、ちょうどこの前後くらいの作家や作品が取り上げられていて。それもまた楽しみのひとつになっていたんですけれどね。
ガウディ、ウィリアム・モリス、マッキントッシュ、ギマール、ガレ・・・。ちなみに今日は、ウィーン工房が取り上げられました。


私が特に好きなのは、マッキントッシュギマール

チャールズ・レニー・マッキントッシュは、アール・ヌーヴォーからアール・デコも取り入れ、後に続くモダニズム建築の先駆けともなったと言え、現代でも充分に通用するデザインだと思うのですが。中でも、私が好きなのは、グラスゴー美術学校。工事が2期に分かれ、最初の工事ではアール・ヌーヴォー様式、2回目の工事では、アール・デコ様式が取り入れられたそうです。つまり、この建物は、19世紀末から20世紀初頭の、激変する時代の変化をそのままに示し、融合させて、新しい時代を切り開いた、とも言えるわけです。

グラスゴー美術学校の図書室にあるペンダントライト。アール・デコ様式のこのライトの写真を見せてもらった時、講義中だというのに(しかも私は、その講義を受けていなかったというのに)、「すげぇ〜!!かっこいい〜!!」と大声をあげてしまいました。それが、マッキントッシュとの衝撃的な(でも、今思えば結構ささやかな)出会い。

いや、実は、もっと前に、「栄光なき天才たち」というマンガで、マッキントッシュを知っていたには知っていたのですが・・・。その時は、生き様の方にばかり焦点が行っていたので、作品そのものにまで興味を持っていなかったんですね。もったいない。

それで、その後に慌てて、「マッキントッシュの世界(木村博昭:著 平凡社:発行)」という入門編的な本を買い求めまして。付け焼刃的だったかもしれませんが、読みふけりました。そうしたら、その本の中で、今度はギマールに出会うことに・・・。


エクトール・ギマール。

マッキントッシュや、前述の他の人たちに比べれば、少しマイナーな存在かもしれません。でも、この時期の中で、金属といえば、やっぱり何といってもギマール!19世紀末から20世紀初頭は、「鉄とガラスの時代」、と言われます。産業革命以後、急速に発達してきた新しい技術と、自然回帰の思想との融合を図ったのが、アール・ヌーヴォー(New Art)だとも言えるでしょう。

ギマールは、特に鉄を駆使して、自然の優雅な曲線を存分に表現した作品を制作しています。もう、何というか、本当に美しいんですよ、この曲線が。素晴らしい。ほれぼれします。
ギマールの作品では、パリの地下鉄の入り口なんかが、比較的有名なのかな?とも思いますが(←私が初めて見た写真が、それだった、と言うだけのことかもしれません)。ギマールの鉄がらみの作品は、基本的に鋳造ですね。カタログもあって、大量生産を前提としていたようですから。

でも。

たぶん、ギマールの作風は、ものすごく好き嫌いがはっきりするんじゃないでしょうか。マッキントッシュが洗練されたデザインだとすれば、ギマールは

やっちゃいました〜

って感じが、すごくします。装飾過多、というか。好きな私でさえ、中には、「それはちょっとやりすぎなんじゃないか」と食傷気味になるものも・・・。
金属、ということで、ひいき目はあるのかもしれませんが、でも、やっぱり美しいですよ。「きれい」なもの、じゃない。ただ「きれい」だという次元を超えた「美しさ」だと思います。


この頃のデザイン、yutakaさんも、「無駄なデザイン」とおっしゃっられていますし、今日見に行ったいろいろなサイトでも述べられているように、「構造学的に意味のない装飾」だったりするんですよね、確かに。だから、あっという間に廃れて、合理的な構造主義や構成主義の方へと主流が移っていってしまったのかもしれないですが・・・。

でも、なんだろうな〜、やっぱり好きなんですよね。なんで自分は好きなのかな〜、って考えると、合理的なだけじゃない、「きれい」なだけじゃない、何て言うのかな、「生命感」を感じるんですよ。躍動感といったらいいのか・・・。見ていて、こう、わくわくしてくるんですよね。
「そんなもの、いらないんじゃない?」って、削ぎ落とされて忘れさられてきたものが、そこにはあるような気がするんですよ。

つまり。

ロマンがあるんじゃないですかね。



・・・え〜っと・・・。
そんな訳で!(どんな訳で?)、「アール・デコ展」、東京都美術館にて6月26日(日)まで開催しているそうです。
Japan Design Net にも、展覧会情報が掲載されていましたので、詳細は、こちらをご参照ください。


ちょうど、6月に卒展会場をみんなで見に行くことになったので、その時に見に行こうかな・・・。



何だか気になって、改めてマッキントッシュやギマールを紹介されているサイトなどを探していたら、すっかり時間が経ってしまいました・・・。「続き」の方に、今回見てまわってきたサイトをご紹介しておきますので、興味のある方、ぜひどうぞ!画像がいっぱいです。
ちなみに、ランキングの方は、順調に(?)ランクダウンしております・・・。文章がいつも長すぎて、読む気がしないんじゃないか、と思い始めてきた今日この頃です。やっぱり、アール・ヌーヴォーとか好きな人(自分)って、基本的に性格が「くどい」んですかね・・・。

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2005年05月19日

工芸の世界に、デッサン力は必要か?

私の在籍する学校にも、デッサンの時間があり、1〜2年の頃は、自然豊かな学校の外に出て、ひたすら植物やら風景やらを描いていました。ところが、3年になると、前期はひたすら石膏像を描く事に・・・。しかも、今までは、形を厳しく追う、ということで、主に線だけでのデッサンだったのですが、今回は調子(陰影)を入れることに・・・。
悪戦苦闘しています。だって、私は、きちんと絵の勉強をしたのは、この学校に入ってからなのですから。それまで、趣味程度にちょっとは我流でイラストめいたものは描いていたとは言うものの・・・。

そんな訳で、今はこんな程度・・・。
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正直、デッサン力が不足しているなぁ、と、描いては溜息。
以前、作品の講評の際にも、「デッサン力のなさが、作品に表れている」と、厳しいお言葉をいただいた事もあります・・・。いくら、目指しているものが絵画ではなくて、工芸と言えども、やっぱりデッサン力は必要になってきます。そして、見る人が見れば、その作品の作者がデッサン力があるかないか、やっぱり分かってしまうようです。

そのことを特におっしゃるのは、今までにも時々紹介している、美術史の先生。この方の講義、面白いんですよ〜。私、密かにはまっています。で、この方が、デッサン云々以外にも常々おっしゃるのは、「いいものを作ろうとするなら、技術を高めるのはもちろん当たり前のこととして必要だが、技術だけでは決していいものは作れない。技術以外に必要なのは、いいものをたくさん見て、見る目を養うこと。たくさん見て、そして自分にとっては、自分だったら、それがどういう意味になるのか考えること。」
考えるためには、漠然と思うだけではなくて、自分なりに言葉に直してみることが必要だ」、とも何度も言われます。そんなこともあって、最近は、学んだ事なり、思ったこと、考えたことなど、出来る限り言葉にしてみようと・・・。作品の制作ももちろんですが、それ以外にまだ余力があるうちは、ひたすら考えてみようか、と。


その美術史の講義の中で、今年度は、毎週のように、「工芸を目指す上で、読んでおいた方が良い本」というのを紹介してくれています。考えるきっかけやヒントとなるようなもの、として。今までに紹介してくれた本は・・・

ユートピアだより」 ウィリアム・モリス:著 発行:岩波書店
 (紹介記事:「快適さと、豊かさと。 Vol.2 『生きることを愛するために』」 (05/04/05))
「左官礼賛」 小林 澄夫:著 発行:石風社
 (紹介記事:「素材の記憶、『もの』の記憶。」 (05/5/15))


そして、今週紹介してくれたのは、「装飾の美術文明史」 鶴岡真弓:著 発行:NHK出版)。よく語られる美術史ではなく、「装飾」という面に焦点を当てた、工芸を目指す人にこそ読んで欲しい本、だそうです。
この「装飾」について述べられていることも、とても興味深いのですが、それを書き出すと、また長くなってしまいそうなので、それはまた次回に考えてみる・・・として。


今回のテーマ、デッサンに戻ってみると。

著者の鶴岡さんは、もともとケルト文化の紹介をされた方なのだそうです。鶴岡さんによると、浮世絵などに代表される日本の絵画と、ケルト文様は似かよっている点があるのだとか。それは、「世界に存在するものを、徹底的に様式化して平面的に直したもの」だという点です。3次元の世界に存在するものを、2次元の平面に落とし込んで様式化することは、そのものが持つ色や形、質感をダイレクトに強調し、かえってリアルに感じさせることである、と、鶴岡さんは述べられています。忠実な写実以上にリアリティを感じさせるためには、徹底した写実(デッサン)の後に、本質的なところ(エッセンス)を抽出する作業が必要不可欠であり、そのエッセンスを抽出する作業が、「デザインする」ということであって、その結果として、個々の装飾や工芸品が出来上がるのだと・・・。(以上、すみません、私なりの要約です。)

私、この間、2次元で考えるのが苦手、と書きましたが(「『空間を作ろう!』 Vol.1 『模型、作っちゃいました』 (05/5/11))、それはつまり、デザインする力が未熟、という訳で・・・。何でデザインできないのか、といえば、デッサン力が不足しているから・・・、ということになりますね。
そう言えば、昨日、建築系の先生が、面白い事を言っていました。「自分のやりたい事や、面白い事をやろうとする(学生が多い)が、まず基礎を学べ。基礎を学ぼうとしないで、自分の好きな事だけやろうとするのは、建築で言えば、基礎工事や土台作りをやる前に、いきなり空中に梁をかけようとするようなものだ」と。うまいこと言いますね、先生。(←だいぶ酔っ払っていましたが)

う〜ん。
デッサンか〜。
デッサンも、工芸の技術も、ひたすら数をこなさなければ、上達しないですもんね。同じように、考える事も、やっぱり考え続けなければ、考える力はつきません。そりゃ、学校に入って初めてスタートした時に比べれば、だいぶ上達してはいるのでしょうが・・・、まだまだまだまだ。

ちなみに。
デッサンが不充分なまま、勢いで制作しちゃうと、こうなります。
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これが、今の私の、Metal NEKO。


日々、反省しながら、前向きに。いつもありがとうございます。
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2005年04月26日

快適さと、豊かさと。 Vol.3 「思い出の価」

※今回の記述は、ここ数日書いてきた「快適さと、豊かさと。」の続きでもありますが、同時に、桐鳳柳雨さんのブログ、 【30秒で30cm幸せに近づくコトバ】夢に一歩踏み出す前に へのトラックバックともさせて頂きました。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

今から3年程前。私は、ある製造メーカーの工場で勤いていました。

学生の頃から、何かを作ることには関心がありました。
どんな形であっても、物作りに携わり、それを仕事として、社会や人々と関わっていけたら。
誰かが(自分が)その仕事をすることで、どこかで誰かが、快適な生活や豊かな生活を送れるような、仕事。
製造業を志したのは、そんな理由からでした。

人生の中で出会う様々な局面は、3年周期、とよく言います。
1年目は初めての環境で、その環境に早く慣れようと(仕事を覚えようと)、がむしゃらに頑張る。
2年目は、環境に慣れてきて(仕事も覚えて)、スムーズにこなせるようになってくる。
3年目になると、次第に周りが見えてきて、その先もだんだん分かるようになってくる。
その時に、どう判断し、どう決断するかによって、その後の人生は大きく変わってくるように思います。

ちょうど入社3年目のその年、私は、このままでいいのだろうか、と悩んでいました。
そんな時に、ふと目にした本の中で、ある詩人の言葉に出会いました。

「私にとって、アンティークの価値は、オークションで、どれだけの値がつくか、ということではなく、そのものにまつわる思い出の価で決まります。」
(「見るアンティーク。使うアンティークのある暮らし」 主婦と生活社 発行  別冊美しい部屋 より引用)


この言葉は、アンティークのある生活スタイルを紹介する本の、一番最初のページに乗っていました。
「私のアンティーク」と題された、詩人の堀口すみれ子さんの短いエッセイの最初の言葉。
この言葉に続けて、堀口さんは、こう語ります。
「夭逝した兄が3歳の時に描いた日の丸の銘茶碗。家には一生涯、晩酌を欠かさなかった父が残した盃がたくさんあります。」
そして、堀口さんは、お父さん(詩人の故堀口大學氏)をまねて、その盃を使うと、「ぬくめられたお酒を伝わって、父の体温が感じられます。」と述べられています。
(同引用)

わずか20行足らずの短いエッセイですが、私はこの言葉を読んで、いたく感動し、いいな、と思いました。
もっと正直に言えば、心底うらやましいな、と思ったのです。そんなにも、思い入れを持つことのできる物があるということ、そしてそれを作っている人がいるということに。

ちょうど、自分が本当に目指したい事は何なのかと考えていた頃。
物を作る事を仕事としたいという当初の志は変わらないものの、大量生産、大量消費の製品を作り続けることは、自分には合わないのでは?と疑問を抱き始めていた頃。
工芸や家具の世界に興味を持ち始めて、デザインやインテリア関連の本や雑誌をいろいろ読んでいた時、偶然手にしたこの本の中で、この言葉に出会ったのです。

私が、以前、Web上でこの言葉について紹介したエッセイがあったので、それを当時のまま転載します。
ちなみに、このエッセイ、この言葉に出会ってから約1年後、会社に退職届を提出した数日後に書いたものです。


「誰にでも、大切な物、愛着を持っている物が少なからずあると思う。それは、何故大切なのだろう。何故愛着を持って、ずっと使い続けているのだろう。
他のものに比べて、機能性に優れているから。デザインが気に入っているから。あるいは、大切な人にもらったものだから。その物との出会いが、忘れられないものだから。

大切な物には、大切なだけの思い出がある。その物と共に過ごした『時』の重みが、静寂の中で光沢を放つ。かけがえのない人や、家族とともに育んだ思い出が、無機質な物質に温もりを与えてくれる。喪失や不在の『時』にも、呼び覚まされる約束のように。

物を作る仕事にこだわりながらも、消費社会の申し子のような製品を作る仕事に携わっていくことに、迷いを感じていた頃の僕にとって、この言葉は、自らの目指すべき方向を指し示してくれたようなものだった。
使う人と共に、時を重ね、思い出を紡いでいけるような『物』を形作る事。その人達が織りなす安らぎや幸福の空間を形作る一助となり得るような『物』を形作る事。

今は夢だと、笑われてもいい。
でもいつかは、僕はあなたの、満ち足りた喜びの笑顔が見たい。」



快適さとは、豊かさとは何だろう。そうした問いに、これが真実、というような、確かな1つの答えはないのかもしれません。
何を豊かさと感じるのか、人それぞれが違う想いを抱く事でしょう。もし、ただ1つ、それでも確かな事があるとしたら。
その人にとって大切だと思えることは何なのか、ということなのでしょう。

「『モノ』より『思い出』、お金で買えない価値がある」というCMがありました。
私に限っていえば、私にとって大切なのは、「モノ」で計れる快適さや豊かさではなく、「心」の豊かさなのだと思います。


「快適さとは?豊かさとは?」
誰もにとっての確かな答えではないものの、少なくとも自分にとっての答えは、もう見つけているはずなのですが。
現実の様々な局面に遭遇するたびに、揺らがされ、とまどい、また迷い始めてしまう事があります。
それは、まだまだ自分に弱さがあり、まだまだ未熟であるから、とも思うのですが。

「自分はこれから、何を作っていけばいいのか?」
様々な矛盾を抱えながらも、そんな時、私は、堀口さんの、あの言葉に立ち戻ります。
あの言葉に出会い、私が何を感じたのか。
堀口さんの言葉を読み返し、その言葉に揺り動かされて反応した自分の言葉を、改めて読み返してみても、この想いは、今も変わっていないと感じます。
ここが、私の新たな出発点となった場所。迷った時、見失ってしまいそうになった時、私はいつも、この場所まで戻ってきます。
そして、この場所は、今でも、そしてこれからも、私にとって目指すべき指標となる大切なよりどころでありつづけると思います。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――
3回に渡って書き綴ってきた、「快適さと、豊かさと。」は、これでいったん終了となります。
長々となってしまいましたが、読んでくださった方、ありがとうございます。
長い割には、言葉の足りないところがあったり、蛇足に過ぎるところも多々あったかと思います。
何か気づいたり思い出したりしたときには、その都度、補足のように書いていくかもしれません。
また、別の視点からも捉え直す必要もあるかと思います。
それは、またの機会に・・・。
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2005年04月25日

快適さと、豊かさと。 Vol.2 「生きることを愛するために」

先日、学生食堂でいつも調理をされている方が、ふらりと工房へやってきて、いらない鉄の端材はないか、と聞くのです。

そりゃぁ、たくさんありますよ、と、端材置き場から一緒に探しながら、何に使うのかと思ったら。農作業に使う鋤や鍬が、木の柄から抜けてしまうので、ゆるくなった口のところに楔のように打ち込むつもりだと。
いくつかの小さな破片を見つけて、これなら使えそうかな、と持っていかれました。

その後、別件で近所を訪れたところ、そこで偶然その方に出会いました。
その時、これまた偶然に、例の鋤や鍬を見たのですが、それはもう、何年何十年も使い込まれているような、何とも言えない風格さえにじみ出ているようなものでした。

それが、当然なんですよね。メンテナンスと補修を繰り返しながら、ひとつの道具を大切に何年も何十年も使う。良い道具なら、一生もの。

当たり前の事と言えば、当たり前すぎて、いったい何を言いたいんだ、と思われるでしょうが・・・。


今の時代、ホームセンターなどに行けば、ちょっとした道具なら、買い求めやすい値段で、たくさん売られています。
使い勝手が悪くなったら、壊れたら、値段も安いんだし、新しいのを買った方がいい。わざわざ自分で直したりするのは、面倒くさいし。買った方が断然、楽。
そう思いませんか?


道具に限らず、さまざまな種類の物で、使い捨ての風潮が広まり、もう何年も問題視されています。
余談ですが、私が結構嫌なのは、電化製品。
最近は、かなり安いものが出回っていて、安いなら買ってみようかな、と思って購入しても、大概2〜3年で調子が悪くなってしまうように感じます。故障かな、と修理に出そうとすると、今度は結構な修理代がかかってしまうんですよね。
2、3回も修理に出したら、結局買い換えた方が得、ということに。
結構古いものだと、メーカーにももう部品がない、と言われたり、新しくて機能も豊富な新製品に買い換えた方がお得ですよ、と勧められます。
ちょっと直したら、まだまだ使えそうなのにな・・・とも思うのですが。



私が子供の頃に比べれば、格段にリサイクルは普及し、関心も高まっていると実感はするのですが、それでも・・・。

良質な物を扱う店が、次第に姿を消してゆき、その後に新しくできる店はといえば、いまだにディスカウントストアや巨大なショッピングモール。
安さや品揃えの豊富さ、便利さの熾烈な競争があり、お客を呼ぶために、次から次へと新しいものへと変えていく。
多大な宣伝広告で、購買欲をあおり、流されるように次々と買い求めていく。
そんな街並みを眺めるにつけ、私は時折、矛盾や何か大きな虚無感のようなものを感じてしまうのです。


そのことが、たぶん、「東京から富士見に戻ってくると、何だかほっとする」ことの、ひとつの理由のようにも思います。
都心には、たくさんの物があって。新しいもの、変わったものがたくさんあって。
ちょっと街をぶらつくだけでも、いろんなものに目移りし、いろんなものが欲しくなります。
あれも、これも、それも、どれも。物から物へと渡り歩き、でも、そこでふと、立ち止まります。
それは、本当に自分に必要なものなのか?自分が本当に欲しいものって、何だろう?
たくさんの物を提供されながら・・・。


 壁いっぱいのコーヒーメニュー
 紅茶に緑茶 ケーキにパスタ
 選んでいるようで 選ばされてる

 ファッション CD ゲームにケータイ
 流行 情報 最先端
 遊んでいるようで 遊ばされ
 楽しんでいるようで 楽しまされている

 (「アイドリング・ホッパー」より)




私の感じる田舎暮らしの利点は、目移りするほどたくさんの物がたいしてないので、限られた「もの」とじっくり向かい会う機会が多いということでしょうか。
それは、「物(製品)」に限らず、身の回りの環境に対してもそうですし、また、突き詰めて言えば、自分自身と向かい会う機会が多いということにもなります。

誰かが意図的に提供する「もの」ではなく、当たり前のごとく、在るがままにそこに在る「もの」たち。
移ろいゆく四季の中で、繰り返される息吹。ささやかであっても、懸命に生きる無数の「いのち」に囲まれて、彼らと向かい会っていくと、自分自身の感覚も研ぎ澄まされていくように感じます。
そうなってくると、無機質な「もの」達にも、それぞれの「いのち」の鼓動が感じられるようにも思えてくるのです。



ちょうど今日、美術史の講義があったのですが、その中で、先生がウィリアム・モリスの言葉を引用していました。
それを、私なりに要約してみると。


「さして必要でもないものに囲まれて生活していると、人はいずれ、自分自身の生活を大切にしなくなる。
それは、生活を憎んでしまうということと同義である。言い換えれば、自らの生活を愛する事ができないということでもある。
自らが生きていく事を愛する事ができないのに、人は死ぬ事を恐れる。
一方、愛する事のできる生活を送る人々は、生きることを愛することができるだろう。

いつか、物を作る人々は、必要だから作るようになっていくだろう。
愛する事のできる生活を送れるように。生きることを愛する事ができるように。
自分自身のために作るように、隣人のために作るようになるだろう。
そしてそのことは、ただの夢物語ではなく、私には明確なVision(理想)として見えている。」



ウィリアム・モリスが活躍した時から、100年以上の時が過ぎ去った今。
モリスは、上記のような世界が、2003年には実現しているという想定の物語を書いたそうです。
2005年の今は、果たして、モリスの予測したような世界になっていたのでしょうか。
モリスは、どんな思いで、この現代を見るのでしょう。




また、長い上に結局まとまらず・・・。さらに続きます。
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2005年04月22日

快適さと、豊かさと。 Vol.1 「消費されるデザイン」

昨日、東京から富士見に戻ってくると、何だかほっとする、なんてことを書きました。
都会の生活、田舎の暮らし。行きつ戻りつ、事あるごとに自分自身に問いかけ続け、そしてずっと考え続けてしまうことがあります。

都会には都会の利点がたくさんあって。
人も、物も、情報も、仕事も、都会に集まっていて。
快適な生活、豊かな暮らしの需要と供給。
求める側と提供する側の、大量消費、大量生産。

決して、他人事のように言っているのではなく、そして、その事を否定しているのでもなく。
私自身の生活も、それらの営みの中にあって、その恩恵を享受することで成り立っているのですから。
そして、私自身も、かつては、大量生産の代名詞とも言える製品の製造に携わっていたのですから。

当時の私は、その製造に携わる事で、どこかで誰かの快適で豊かな生活に貢献する事ができるのだと、それを(自分に言い聞かせるように)やりがいとして仕事をしていました。
そして、休日になれば、さまざまなお店を巡り歩き、新しいものやちょっと変わったデザインのものを好む私は、それらを見つけ、買い求める為に、稼いだ給料の大半をつぎ込んでいました。


都会では、日々新しいものが生み出され、新しい流行が生まれていきます。
今は田舎暮らし。しばらくご無沙汰していて、たまに都会を訪れたりすると、その新しさや変化に、「うわぁ、これはやばいなぁ」と思ったりもします。
時流に乗り遅れてしまう、知らなければ話についていけない、話にならない。そんな恐れや不安⇒やばい。


けれども、ふと、立ち止まってしまう時があるのです。
快適さとは何だろう、豊かさとは何なのか、と。

いつの頃からか、私は、以前のように、物を求めなくなりました。
それは、単純に言えば、退職して安定した収入がなくなった、という理由も大きいのですが。
私の好むような、興味あるデザインのものに出会っても、「今の自分は、本当にこれを必要としているのか」と、深く考えるようになりました。
そして、そのものの前で散々考え、迷いに迷って、結局はほとんど買わずじまい。
「今の自分には必要ない」ものがほとんどだからです。
その物に、自分にとっての何か「意味」を見出せた時のような、よほどの事がなければ・・・。


ちょうど最近、ある一冊の本を読んでいたら、その中に、印象に残る言葉がありました。
「ひとびとがスタイルを買えるものと思うようになったときは、わたしたちは自分自身を失っている。わたしたちは、自分を裏切り、その内面を売って『現代社会』によりふさわしい自分を手に入れる」
(「家具のモダンデザイン」 柏木博:著 淡交社 より引用)

この言葉は、あるアメリカの学生が、「わたしにとってスタイルとはなにか」という課題のエッセイの中で述べたそうで、著者の柏木さんは、同書の中でこの言葉を引用し、次のように解説しています。
「わたしたちは、さまざまななデザインをスタイルとして消費し、それを自らのアイデンティティや生活のスタイルと考えてきた。(中略)『自分自身を失っている』という意味は、自分自身のアイデンティティが商品化されているという意味だろう。そして、商品は次々に新たなスタイルを持ったものとしてデザインされており、わたしたちは結局、特定のスタイルを持つ事ができないということになる。」
(同引用)


自分を含めたたくさんの人々が追い求めているものは、刻々とめまぐるしく変わっていくショーケースの中にあるものなのだろうか。あるいは、それらを手に入れることで得られるものなのだろうか。それらを求め続け、古くなれば捨て、また新しいものを購入し、それらを無限に組み合わせて変化し続ける自らの空間は、本当に快適さや豊かさとなりえているのか。
そして、その事を突き詰めていけば、「それなら、何故自分は物作りを目指しているのか」、「自分はどちらの方向を目指して進んでいけばいいのか」、といった大きな矛盾や壁に突き当たってしまうのですが。

時折、そんな事に思いをめぐらせる事があって、そうするとまたいろいろな問いが繰り返され、また同じような答えが頭をめぐり、それらはいくつもの矛盾をさらに生みだしてしまい、いつも堂堂巡りのまま、結局明確なたったひとつの答えなぞは出せずじまいです。


東京から、富士見に帰ってくると、澄み切った空気とともに、また、よくそんな事がめぐってきます。
そりゃぁ、都会の生活に比べれば、田舎暮らしは、何かと不便です。
けれども、このほっとする感情は、いったい何なのだろう。
単純に、「自然に帰る」だとか、「昔に戻る」とか、そういった言葉でまとめてしまいがちですが、ちょっと違うような気も、それだけではないような気もするのです。
都会の生活の中で享受する快適さや豊かさとは、別の次元の快適さや豊かさが、そこにはあるように感じるのです。
そう感じる事が、様々な疑問や矛盾を抱えながらも、前へ進んでいこうとする今の自分にとって、何かに気づかせてくれるような、自分自身のよりどころとなるような、ひとつの指針となるような何かが、そこにはあるような予感がするのです。


何か長くなってしまいましたし、一気にまとめきれないような感じになってきてしまったので、続きは、また次回に・・・。
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2005年04月14日

De+sign

グループ展の初日。私は学校で、新しい課題にうんうん唸っていましたが、ギャラリーに詰めていた担当者から聞いたところでは、なかなか幸先の良い滑り出しのようです。
私を訪ねてきてくださった方もいらっしゃったとの事で、ありがとうございます。連絡不足で、申し訳ございません。

ところで、昨日の搬入の際に、偶然ネフ社のクラーセン(Clahsen)さんが、ギャラリーにいらっしゃいました。何でも、5月頃に、mono galleryで個展を開かれるとの事。
恥ずかしながら、私は存じ上げなくて、「誰?何やってる人?」状態だったのですが、世界的に有名なおもちゃメーカーの、「とにかくすごい人」なのだとか。私達のメンバーの一人は、クラーセンさんの事を良く知っていて、「(会えて)鼻血がでそうになった」と語っていました・・・。

クラーセンさんがギャラリーに訪れたのは、ちょうど、私が搬入を終えて、帰る前。しかも、帰ろうとしたところを、オーナーの藤川さんに、「帰る前にコーヒーでも飲んでいったら」と呼び止められ、それじゃぁ、と、みんなでコーヒーを飲もうとしていたところでした。もし、藤川さんに呼び止められなかったら、クラーセンさんにも出会えなかったわけで、偶然に偶然が重なった出会いでした。
クラーセンさんも、始めはすぐ帰るつもりだったようなのですが、これまた藤川さんの計らいで、クラーセンさんを囲んでのお茶会となりました。

私は、英語は得意ではないのですが、メンバーの一人が通訳しながら、また、クラーセンさんが分かりやすい英語で話してくださったので、概要は理解する事ができました。


見ず知らずの、まだまだひよっこな私達に、クラーセンさんが情熱的に語ってくださった数々の話の中で、特に印象的だったのは、「デザイン(Design)とは、De+sign、つまりsignを破壊する事だ」とおっしゃっていた事。クラーセンさんは、「デザイン」という概念や言葉、今日的なあり方に対し、否定的な考えで、逆にハンドクラフトというものを非常に重要視されているようでした。

今のデザインの世界は、次々と新しいものを追いかけて生み出し、少し古くなればどんどん捨てられていってしまう。資本主義的で、経済的な立場から成り立っている。
それに対し、数百年前、数千年前の工芸品で、今も残っているものの、何と美しく素晴らしいことか。そこには、数千年隔てても人の心に響く、変わらないものがある、と。

現代では、見た目の方が重要視されがちだが、本来、物にはすべて意味(用途)があり、その用途を追求した形が、本来のものの形であり、そこに現れてくるのが、「用の美」なのだ、と(私は解釈しました)。
クラーセンさんは、ワイングラスを例に挙げられていましたが、赤ワインには赤ワイン用のグラス、白ワインには白ワイン用のグラスがあり、それぞれのワインの香りや味、色などといった特性を最も良く引き立て、味わい深いものにする形になっている、とおっしゃっていました。
用途と機能からくる、必然的な形。それらが生み出す、機能美。
常に新しさを求めてリニューアルしていくことよりも、これからは、もっともっと、変わらずにありつづけるものを大切にしていかなければならない、と。

また、例えば、「これはいいね」と言うとき、英語では「It "looks" good.」と言う。「見る」という感覚が、思考の一番始めに来ている。
だが、本当にそうなのか。視覚の判断よりも、触覚の方が、最初にくる(大切な)のではないか。
(私は、クラーセンさんに、「視覚と触覚と、どちらが最初(先?)か」と聞かれて、人間としての最初?赤ちゃんの時の事?と考え、「触覚が最初」と答えました。生まれたばかりの頃は、目は見えないので、触れるという感覚の方が大切だと思ったからです。けれども、後で英語のできる人に聞いたところ、赤ちゃん云々の話ではなかったようです。結果的には、クラーセンさんのおっしゃりたかった事に、まぁ合ってはいたようですが。)
パソコンの画面を見つめるだけで「De+sign」をするのではなく、自分の手で、触覚を存分に使って物を作ること(ハンドクラフト)を大切にしなければならないのだと。
だからこそ、クラーセンさんは、触覚を存分に使って楽しむおもちゃ作りにこだわっていらっしゃるのかな、と思いました。

視覚以外にも、触覚、味覚、嗅覚、聴覚という感覚を、人間は持っている。視覚ばかりを優先させて判断する(見た目にこだわる)のではなく、もっともっと、あらゆる感覚で判断し、そういうスタンスでクラフトに取り組む事が大切なのではないか。クラーセンさんは、そうおっしゃっているように思いました。


英語が得意ではないので、自分なりに理解しようと努めた上での、相当な意訳なので、実際にはちょっと違ったり、私の言葉足らずな部分や誤解があったかもしれませんが、ご容赦を。

ところで、クラーセンさんは、"TOY"という言葉がお嫌いのようでした。"TOY"というと、「子供だけのための」ものと捉えられてしまうからだそうです。
代わりに、クラーセンさんは、"Play things"という言葉を使われていました。むしろ、大人の方が、"Play things"を使って、触覚を取り戻す必要があるのだと、おっしゃっているようにも聞こえました。


無知な私は、出会うまでクラーセンさんのことをまったく知らなかったのですが、まったくの偶然の出会いで、非常に深い話を伺う事ができ、叱咤されるとともに励まされたような、そんな感覚になりました。
偶然の出会いに、自分にとっての意味を見出した時、それは自分の心に深く染みわたり、やがて自分の生き方にさえ大きな影響を及ぼし、後々の人生の中で必然的なものになっていく。
人生とは、そうした偶然を必然に変える繰り返しによって成り立ち、その積み重ねによって、より深いものになっていくようにも思うのです。
posted by Metal_NEKO at 23:12| Comment(0) | TrackBack(1) | Craft・Design | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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